イエメン人の命　＝カート＝（２００２年２月）

大層なタイトルをつけましたが、実際カート QAT はいまやイエメン人の毎日に欠かせないものとなっています。そのカートを今回は紹介します。

そもそもカートとは、アカネ科の木の葉っぱです。このカートの木は４ｍの高さにまでなり、その若い緑の葉っぱを生で噛み下すと出てくるエキスには、軽い興奮作用を起こす成分が含まれているそうです。こういう説明を読むとまるで｢ドラッグ｣のようですが、イエメン人たちは否定して、｢身体に悪いことなんてない｣と言い張りますけれど、実際イエメン以外のアラブ諸国ではカートは厳禁となっています（海を越えた対岸のエティオピアやジブティ、ケニアでもカートの習慣がある）。そのカートの味ですが、私は少ししか噛んだことがありませんが、はっきり言ってまずいです。妙に青臭くて、苦くて、渋味もあって、よくもまあこんな味のものを何時間も噛み続けられるものだと感心します。

それでもイエメン人はカートが大好きで、それは午前中のカートマーケットの賑わいや午後の街中を歩いている男の人の頬を見れば一目瞭然です。なぜ頬かと言いますと、葉っぱの噛みかすを飲み込んだり吐き出したりせずに（これが結構難しい）、どちらかの頬の内側に溜め込んでいくので、テニスボール大の頬をした異形の男の人をあちこちで見かけることになります。休暇などからサナアに戻って来る度に｢ここは特別の場所だなあ｣と心の底から思うのですが、その大きな原因にこの｢こぶとり爺さん｣があります。ドイツのガイドブックにも｢人間の頬が時間を掛ける内に、このようにも拡張できるようになるとは信じ難い｣と書いてありましたが、全くその通り。

旧市街のデーツ屋のお兄さん。
まだカートタイムの始まりなので、頬のふくらみは小さい。

そして、そのカートはイエメンの社交とくつろぎの場に欠かせない道具なのです。｢カートなしでは何事も進まない｣と言われ、縁談の取り結びや土地の売買、果ては大統領のカート・パーティーで重要な政治決定もなされると言われるほどです。普段は昼食の後に友人同士が誰かの家に集まり、カートを噛みながらおしゃべりに興じ、情報交換をしたり、政治談議をしたりするのです。

そのカート・パーティーの行われる部屋が｢マフラージ｣と呼ばれ、普通は見晴らしの良い最上階にあり、床は絨毯敷きで、部屋の壁に沿って足のないソファのようなものが並べられ、皆で片膝を立てながら座ります。ちょっと高級なカート・パーティーでは、床にはカートの木の枝が山のように詰まれ、そうでない時は各自が葉っぱ入りの袋を持参して、煙草を吸い、水やコーラを飲みながら、若葉だけを選んでどんどん口に入れていきます。カートのエキスが身体に廻り始める頃、おしゃべりは絶好調となり、喋り疲れた夕方になると、ようやく静かな時間が訪れるのだそうです。

夫もたまに仕事の話ということでカート・パーティーに招待されるのですが、その場へは夫とは関係のない人もたくさん訪れ、しかも一人がやって来る度にいちいち立ち上がって握手をして挨拶を交わさなくてはならないので、大事な話なんてちっともできやしないとぼやいています。そして帰宅すれば、煙草やらイエメン人の体臭やらで異様な臭いのする洋服について妻から文句を言われるのですから、踏んだり蹴ったりです。

このように本来のカートの主目的は社交であり、またかつては都市の富裕階層の男性だけのものであり、庶民は年に２回のイスラムのお祭りか、結婚式の時ぐらいしか噛めなかったそうですが、１９７０年代以降の出稼ぎブーム以降、誰もが日常的にカートを楽しめるようになり、女性でも噛む人が出てくるようになったそうです。

現在は本当に｢猫も杓子も｣といった感じです。昼食休みの後、午後３時ぐらいから再びお店が開き始めるのですが、お店の人は勿論、タクシーの運転手、普通に道行く人々全員がこぶとり爺さんとなっています。この時間帯にちょっと郊外の山の上に行くと、道路の脇に車がずらっと駐車してあるのですが、これは景色を楽しみながらカートを噛んでいる人たちです。車を走らせている時には、前の車の窓が開いたかと思うと、どさっと用済みのカートの枝の束が捨てられ、何事かと驚くこともあります。また、少しでも風のある日の午後は、カートが入っていた色とりどりのビニール袋がそこかしこで舞い、外国人たちに｢ Yemeni birds （イエメンの鳥）｣と呼ばれています。

これがカートです。
ここは旧市街のカート市の一角。

バナナの皮で丁寧にくるまれているカート。
｢これぐらいの情熱を持って、仕事にも励んでくれよな｣と
どの外国人も思っているに違いありません。

ここで、｢他のアラブ諸国では禁止されているカートをこのように嗜好していて、果たして健康に良いのか？｣という疑問が生じます。カートの副作用として、睡眠障害、便秘、胃炎、血行障害などが一般的に言われ、また西欧の研究によると性的不能も挙げられているとか（それでもイエメン人に子沢山が多いのはなぜ？？）。

カートがイエメン人の健康に及ぼしている実際の影響については私は知りませんが、経済的な悪影響に関してはいくつかの話を聞いたことがあります。ドイツのガイドブックによると、全イエメンの耕作面積の７％がカート畑となっているとのこと。良い種類のカート畑になると、１ヘクタール当たり２万ドル（約１４０万円）もの売り上げを出すそうですから、栽培者にとってはカート畑の方が魅力的なのは当然です。しかし、農業以外にこれといった産業のないイエメンにとって、農作物でもなく輸出できるものでもないカートにこれだけの耕作面積を取られることは、経済的に大きな問題となっています。

また、イエメン人にとって午後はカート・タイムですから、その分労働時間が短くなり、能率も悪くなっています。私たちの価値観のみを押し付けることが良いこととは思いませんが、イエメンが先進国の仲間入りをしたいと本当に考えているならば、このカートという悪しき習慣を止めなければならないというのが、ここの外国人の一致した意見です。

また、瑣末なことですが、午前中のカート・スーク（市場）の近くは人と車でごった返し、運悪くそこを通りかかった時には、非常にいらいらさせられます。このカート・スークが小さいものはゲリラ的に展開され、前まではこんな場所になかったという所に突然現れ、近道のつもりが結局は２倍の時間が掛かったということも起きます。更に、前述のビニール袋といい、たまに道路に吐き出されるカートの汁とで、イエメンの街の景観を随分と損なっている気がします。

が、その一方で、これは我が夫の意見ですが、失業率の高いイエメンにて犯罪が少ないのはこのカートのお陰ではないかと言うのです。普通だと、職のないいい年をしたお兄ちゃんたちはエネルギーを持て余して何か悪いことをやらかしそうですが、幸か不幸かここにはカートという絶好の暇つぶしがあるので、その持て余すエネルギーをカートに変換できるという論理です。なんだかそれも一理あるなあと思いつつ、またそう考えると、今まではただ気持ち悪いとしか思えなかった、緑色の汁を歯の間からはみ出させつつ笑いかけてくるイエメン人もしょうがないかと思えてくるのでした。

そんなこんなでイエメン人はカートを深く深く愛し、カートのことになると目の色が変わります。カートは３６時間でその味と作用が無くなると言われ、朝摘みのカートが乾かないようにバナナの皮で丁寧に包まれて出荷されます。普段の仕事は何かと滞りがちなイエメンですが、カートに関しては日本の宅急便顔負けの流通ネットワークが確立しているようです。皆さんも是非、世にも不思議な｢こぶとり爺さん｣を見にいらして下さい。